「秋は夕暮。夕日のさして山の端いと近うなりたるに、烏の寝所へ行くとて、三つ四つ、二つ三つなど飛急ぐさへあはれなり。まいて、雁などのつらねたるが、いと小さく見ゆるは、いとをかし。日入り果てて、風の音、虫の音など、はた言ふべきにあらず」ご存知、枕草子の一節です。夕日が沈みかけて山肌にかかるころ、紅に染まる空をカラスが森にかえっていく姿を眺めたり、雁の群れが小さく浮かんでいる茜空を見渡すことは、私たちの年代では多くの人が実体験しています。日が暮れた後の虫の声を聞いて秋を感じることも清少納言の生きていた 1000年前と変わりません。ですから、それらを「あはれ」「をかし」と表現する清少納言の感性に今でも共感できるのです。
しかし、現在からさらに1000年たった後の日本人の中に、平安時代の才女の感覚を理解できる人がどれくらい残っているでしょうか?今、人々は寸暇を惜しんでスマホ画面を食い入るように見ています。20代の平均スマホ視聴時間は一日3時間半ほどだそうです。思わず「今、見なきゃだめなの?」と言いたくなるくらい、あらゆる場面でスマホ、スマホ、スマホ 。いわゆる「隙間時間」などできようものなら、スマホを見なければ命でも取られるかの如く、我先にという感じで画面を覗き込んでいます。秋風のゆらぎを感じるよりも、夕暮れの美しさを見るよりも、虫の声に耳を傾けるよりも、SNSのコメントやゲームの画面が優先なのであれば、季節の移ろいが醸し出す情緒など察知しようがなく、身の回りにある何気ないものごとから何かを感じ取る感性は鈍化してしまうでしょう。風鈴の音に「うるさい」とクレームをつける人が出てきているのも、そうした現象の一つかもしれません。考えたくはありませんが、いずれ「秋は夕暮れ」などと言われたところで「え、どういうこと?」「何で夕暮れなの?」「だから何?」という人が出てくるかもしれません。
はるか昔の私の大学時代、国文学の授業で「見渡せば花も紅葉もなかりけり、浦の苫屋の秋の夕暮れ」という藤原定家の歌を音読するとき、「紅葉」の部分を「こうよう」と呼んだ女性がいました(正しくは「もみじ」です)。かなり美人でファッションも持ち物もメイクも相当お金をかけている感じの人でしたが、それを聞いた途端、教養のなさはともかくとして、「こうよう」では音のリズムがおかしくなることくらい感じないのかなと、がっかりしたことを覚えています。当時すでに「浦の苫屋」など実際に見る機会はほとんどありませんでした。それでも、夕暮れ時に海沿いにひっそりと佇む粗末な小屋が侘しさを際立たせているという秋の感じを想像できる力は十分にありました。あれから四十数年、今の二十代の人たちに秋を感じる感性は残っているでしょうか?「浦の苫屋」なんてとうの昔に何を意味するかもわからなくなっているでしょうけど 。ちなみに歌を詠んだ当時、定家は25歳くらいだったそうです。
園長 永井 洋一