2022.3 園長 永井 洋一
今季の冬はとても寒かったですね。冬の寒さが厳しいほど春の訪れを喜ぶ気持ちが大きくなります。春といえば桜。私たち日本人にとって春の描写に桜は欠かせません。
久方の光のどけき春の日に、しづ心なく花の散るらむ 紀友則
世の中に、たとえて桜なかりせば、春の心はのどけからまし 在原業平
いずれも古今和歌集の歌ですが、前者は桜(花)が「しづ心なく」散るといっています。はらはらと散る様が、穏やかな感じではなく、なんだかせわしなく思えると言っています。後者も桜が春の空気を乱すもののように言っています。桜がなければもっと春はのどかなものなのに、と。現代の私たちは桜に華やかさ、あるいは、散り際の見事さからくる儚さなどを投影します。しかし平安時代の歌人たちには、桜にはそんなイメージがなかったようです。それもそのはず、私たちが桜の代名詞のように思っているソメイヨシノは、平安時代にはまったく存在していなかったのです。
ソメイヨシノの歴史は驚くほど浅く、明治時代に入ってから人工的な交配で作られました。早く成長してすぐに花をつける新種として、新政府が全国各地に整備した公園、官公庁、記念碑などの周辺に数多く植樹しました。今でも桜の名所はそうした場所が多いですよね。森山直太朗さんの「さくら-独唱」に「さくら、さくら、今咲き誇る、刹那に散りゆく運命と知って」あるように、私たちは桜と「散り際の儚さ」を不可分のものとして考えます。しかし、そのイメージが生まれたのはソメイヨシノが日本中に行き渡った明治以降であって、平安時代には誰もそのようなイメージは持っていませんでした。明治以降、ソメイヨシノの「散り際の見事さ」は「日本人の心性を示すもの」としてイメージが定着してしまいます。戦時には軍隊のマークや、隊の呼称、兵器の名称に好んで「桜」の文字が使われました。桜のように「華々しく散る」ことが美学であると教育された若者たちが、必ず死ぬとわかっている戦いに敢えて向かって尊い命を失いました。
散るとわかっていても敢えて行くという姿に「美学」を求める感性は、戦後 70年以上たっても、特にスポーツ界に根強く残っています。北京冬季五輪で怪我を押して超高難度の大技に挑んだ羽生結弦選手にそうしたイメージを投影した人も多いのではないでしょうか。しかし羽生選手は技を失敗してメダルを逃した後に「報われない努力もあると感じた」と言いました。「人生、ムダだったと思うこともあるのだ」と。「結果として散ったら、だめなんだよ」 とは言いませんでしたが、「潔い散り際」などと言っていては本質を見失う…と瞳の奥で語っているように感じました。決して「散りの美学」に自己陶酔することのない羽生選手の強い心に感服しました。
まもなく園庭にも桜が咲きます。一年のたった数週間の開花のために、ほぼ11ヶ月以上を我々の「期待」を背負って待機し続ける桜も、考えてみれば我慢強いですね。